ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

0110/18

知は自由で、知識の使い方も自由。アルキメデスの私に支点さえ与えてくれれば地球さえ動かせるという発言はとても自由があっていいなと思う。知は世界にインパクトを与えるためのテコみたいなものだったらよいなあと思う。

音楽理論オタクだけど曲を作らないみたいな、知識をため続けるだけのオタクになりたくないのだよな、純粋数学とかやってる人は純粋数学の世界にインパクトを与えたいのだろうか?それとも現実に与えたいのか。人によって動機は違うかもしれない。

 

みんな理系とか文系とか学歴の話が好きだ。実際それは文部科学賞によってどれだけ洗脳されたかという自慢、奴隷の鎖自慢なのかもしれない。自分も洗脳されていた側だった。知は自由なので教育は害悪。

 

現実世界に変なことが起こってほしい。合理性を突き詰めると人間の先入観が破壊されて世界に変なことが起こる可能性が往々にしてある。

例えば仮想通貨とか変なことが起こっていると思う。どうでもいいけど涼宮ハルヒビットコインにハマりそう。「キョンビットコインを買うわよ!」

支離滅裂な日記を書いた。

0108/18

継続して何かやるということが苦手なので、web日記もやめてしまいそうになる。

何かを続けることに意味を見出すのは、エピソード記憶貧弱マンには難しいことだ。

僕は何かをやったという事実や感じた感情、景色はだいたい忘れている、言語で表現可能な意味記憶だけ覚えているタイプの人間だ。しかし、今まで続けてきたことの恩恵を認識しないといけない。

数学を学ぶということは楽譜の読み方を学ぶの似ていて、そして楽譜が音楽そのものではないように、数学を学ぶこと自体は数学そのものではない気がする。まあ、これはどうでもいいことで、今言いたいことは、読み方を学んだ人はその流儀で書かれた知識にアクセスできるからすごい、読む力すごいということだ。僕は自己評価を"自分は何もできない"に設定しがちだけれど、数学の本が読めるのも、英語の本が読めるのも、楽譜がちょっと読める(あまり得意でない)のも、音を聴いてすぐコードやスケールがわかるのも、トンデモ科学広告がすぐトンデモだとわかることも、ある種の読み方を学んでないとできない、リテラシーがないとできないことであり、それらを当たり前と評価するのは、読む力を過小評価しすぎていると思うようになった。

twitter(インターネットスラム街)でよく言われていることだが、日本語の文章ですらきちんと読むことができないで、自分の中で勝手に作り上げた文脈で理解してしまう人というのがたくさんいるのだ。

ところで日本人の多くが受けるセンター現代文の評論は記号選択問題のわりに、むしろ記号選択だからこそ、うまくできていて、正解の根拠が文章中に必ずあって、評論で扱われている分野の基礎知識なしで答えることができる、つまり純粋に読む力を測る問題になっている。おそらく平均点は5割〜6割だろうし、センター試験を受けない人や点数を重視しない理系の人もいるだろうから、センター現代文をいつも100点取れるレベルではない読解力の人が、日本人の過半数以上である。

センター現代文なんかアホらしいと今は思っているけれど、読む力があるかという点で、多くの人にとって馬鹿にできない関門なのだ。

 

読む力というのは本当に価値があるのだと思う。個々の知識はGoogleWikipediaがいくらでもポケットティッシュのように配る時代になったけれど、正しく読む力というのは特別で、集中した訓練なしに得られない財産なのだろう。

1218/17

クラシックの教育は全く受けてないけど、アンリ・シャランの和声課題が美しい(?)ということをずいぶん前から知っている。いつか理解してみたいなあと思うけど、最大の障害は楽譜の議論があんまり得意ではないところにあるので、今は簡単な楽譜を早く読む練習をしています。

音楽は人の作品からは学ぶことが大いにあるけど、人から学ぶものでもないような気がしていたので、学校も専門学校にも行く気になれなかった。

和音のルールに禁則が多いのはある面、凄く良いことだと思う。やっていけないこと以外やってもいいという点で自由だ。

感性の邪魔をされたくないとも思う。この和音がおしゃれですとかこのよう和音は〜な場面で使えるでしょうみたいな、そういう感性の押し付けは感心しない。

 

僕は数学科に在籍しているけど、数学もきっと、人からは学ぶものではなさそうだと思う。人の数学的遺物から学ぶことはたくさんあるだろうけど、本当に数学を楽しんでる人、研究者の人は、数学という砂場で遊びつづけてるのだと確信している。僕は、あんまり数学での遊び方がよくわかってないのかもしれないと思った。音楽なら無限に遊ぶ自信があるけど....

遊べるかどうかが重要で、音楽も数学もそこに何も違いはない。

数学はたまたま、義務教育や高等教育の科目になっているだけだ。たまたま、科学が台頭している現代における記述ツールになっているだけだ。

 

自分の無限に遊べる分野を作って、かつ、能力を自分で伸ばして行くべきなのだと思う。

1217/17

文章を書く気力がなくなって来ている気がする。気力が欲しい。

「やる気がない時に部屋の掃除を始めたくなるのは自分の行動で周囲の環境が何らかの改善されることを確認している」そうだと思う。

学習性無気力とか脳科学とかのことが思い浮かぶが、どんな些細なことでも周囲をよくする行動をすることには意味がある。まあ、よくなったから何だと言われたらおしまいであるが...

 

よく目にする「人生は楽しまなきゃ損」こういう価値観は先進国での自殺に繋がると今日思った。(何か)を楽しむのは良いことだと思うが、そこに人生を代入するのはどうなのか。 楽しめない人の人生はひたすらマイナスの存在になってしまう。楽しんでる人もアウシュビッツのようなところにぶちこめば、とたんにその価値観は崩壊してしまう。極論、1番楽しい時に苦しまずに自殺するのが最強になってしまう。そういう自殺をした女子中学生がいた気がする。遺書に1番楽しいときに消えたい!みたいなことを書いていた。 

人生を絵を描くことに喩えることがある。「描き続ける画家はいない。手を休めて全体を見て、また描き始め完成を目指していく。」みたいな名言あった気がする(適当) そうだねえ、例え絵が完成して、蛇足だとわかっていても手が止まるまで描くことをやめられないのが人生で、その中で最良の絵にするというのが、自殺しない人にとっては基本方針になると思います。文章を丁寧に書くことがめんどくさくなってきたのでここでやめます。

1214/17

今日のポエム 

数学をメイドインアビス風に

 

人類にとって未知の領域が存在するアビス(数学)にはさまざまな遺物(公理や定義や定理)が落ちていたり、動植物(概念や問題)が自生している、大昔の人間が生み出したものもあれば、自然に生まれたようなものもある。

1度、奥に(下層)進んでしまえば、2度と上層(以前の認識)に戻ることはできない。

そんな数学という、ひとつのおおきな世界の中で今日も暮らす概念たちの姿は、時に可愛いらしい造形だったり、見るものの心を折ってしまうようなグロテスクな化け物だったり、多種多様である。(ネリタンタンとかベニクチナワとか)

しかし誰が意図したのかわからないが、その概念の構造において奇妙な共通点がある。それらの共通点についてまとめた図鑑が探掘家(数学者)によって執筆されている。 (群体環などの代数系圏論などのこと) この概念たちの図鑑読むことで、困難を極める奈落の底への旅への見通しがよくなるだろう。

 

(解析はどんな表現がふさわしいだろうか)

 

オイラーの公式とかの奈落の至宝感は異常

 

高校生〜大学生    赤笛 (見習い)

大学生 〜  院生     青笛 (一人前)

院生 〜 助教授        月笛 (師範代)

教授 〜 図鑑の著者  黒笛 

数学界に大きな影響をもたらした伝説的な数学者   白笛

 

白笛の声は数学の声←かっこいい

 

「今答えが見つかるなら 全て無くしてもいい」←なける

 

「今この目で見つめるのは 暗闇のその向こう、

    光よりも輝かしい  謎と真実が見える」       ←なける

 

「もし答えを知ったのなら何かが変わるのかな

    ふと迷う僕らの背を 憧れがまだ押してる」←なける

 

「それが呪いでも 鼓動は本物」 ←なける

 

 

1208/17

大学のwebで提出する課題があって、説明(特任教授が書いた)の中で用語がリンクされてたのでwikipediaかな?と思って押して飛んだらwikipediaだったのがツボって笑ってしまった。wikipediaをディスりまくる教授も中にはいるけど、全般的にwikipediaとズブズブになっている。数学や物理やコンピュータ関連(そういうえば、向こうでは理系とか言わずにSTEMと言うらしい)についての用語に関しては英語版wikipediaが圧倒的に充実している。日本語版wikipediaの方が充実している時代は永遠に来ないし、あと30年以内で日本語で得られる情報はどんどん貧しいものになっていくんだろう。そう考えていると英語に投資し続けないといけない感じがする。

 

TOEICを初めて受けてわかったけれど、TOEICに名前をつけるなら"ビジネス英語に関するリスニングとリーディング選択式テスト"だなあと思った。ビジネス英語ではわかりやすい完結な言い回しが好まれるので、簡単な動詞+前置詞の言い回しが英語のニュースや論文に比べて異常に多い気がした。なので句動詞に関する本を買った。あと趣味で語源の本を買った。

 

TOEICの問題集をやる気が全くおきない。そもそもまだ買ってないのだが、しんどいなと思う。なぜか。

英語基礎力 + 英語を聴き取る耳の力という土台がまずあり、その上にビジネス英語力があって、さらにその上にTOEICというテストに対する形式/パターン慣れという構造になっている気がする。TOEICを目標にしてパターン慣れなどという無意味な勉強をするより、英語で書ける話せるという方を目標にして英語の勉強した方が良さそうだからだ。(少なくとも英語で論文が読める、あと書けないと大学の中でしんどい思いをすることになるだろうという予想がある)

 

日本語を書くときであっても、英語に自動翻訳でなるべく直しやすいような文構造と語彙を使うことがだんだん求められていくようになるんじゃないかなあと思う。

 

話を戻すけど、TOEICは"ビジネス英語に関するリスニングとリーディング選択式テスト"みたいに固有名詞にわかりやすい名前をつけて世界を理解していくことは大事なんじゃないだろうか。

数学で定理の命名方法で、「(数学者の名前)の定理」というのが大量にあるけど、あれはどうなんだろうと思う。もし化学で、化合物の名前を発見者の名前にしてたらカオスすぎると思う。

まあ、化学の相手は自然だから、人の名前が付くのは実験法とか合成法に限るんだろう。逆に、数学の定理に数学者の名前がついてしまうところに数学の属人っぽさを感じる。

名は体を表すをモットーに、(数学者の名前)の定理に名前をつけていきながら勉強しようかな。

ハイネの定理...はコンパクト集合上関数一様性連続定理⁇ 長ったらしくなるから数学者の名前をつけるしかないせいのなのかもしれない。

1207/17

小説が読めない。

昔は読めたし感情移入もできたような気がするけど、今や小説内に書かれてることが全てどうでもいいと感じてしまう。