ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

1029/17

今日は、音楽について。

吉松隆さんが毎日作曲しないひとが作曲家を目指す意味がわからないと言っていたのを思い出した。作ることこそが日常で、作らないことが非日常なのだろうということを感じさせる。音楽が超越的な信仰の対象として十分機能していればそういう日々を送ることができる。もし作曲でご飯が食べていけるという前提があるなら、そういう信仰の中で生きられるのは最高だと思う。

信仰対象を入れるポケットには1つしか入れることができない。どうにかして2つ...3つ...と入れれるようにならないものか。 

興味があるので、モーダルハーモニーについて調べている。

 

今、ふいに謎の確信を得たけど、僕は普通の組織的な会社で働くのはやめたほうがよいでしょう。それは僕のためでもあるし、会社のためでもある。

父が労働して(仕事場に存在し、知識や労力や時間を対価にして)お金を得ている人なので僕は不労所得という言葉にあまり馴染みがないけど、良い言葉だなと最近思った。

 

1027/17

憂鬱な気分の原因の9割は寝不足というの正しい気がする。睡眠障害は治しましょう。22:00くらいに寝て6:00くらいに起きるのが一番良いと思う。日中はカフェインやら他をいろいろ摂取して、覚醒度を上げ、体や頭を動かしてあげると夜に眠くなるのでとてもよい。微妙なズレを補正するための調整剤としてメラトニンを導入するともっと安定する気がする。

昔、学校の担任の教師に睡眠障害で病院に行ってこいと言われたが、行かなったことを後悔。たかが睡眠なんか適当にやってても、自分なら大丈夫という過剰な自信があった。

自分という人間の得意/不得意について何となく考えたけど、あるルールがあって、ルールを把握した後にそれらを魔解釈するような発想をするのは得意だけど、最初のルールを把握し、受け入れる段階が不得意な気がしてきた。言われたことを言われたようにやるのを本能的に嫌がってる気がする。言われてないことを言われてないやり方でやることがとても好きらしい。こういうことを書く理由は、誰かに僕の特性をわかってもらいたいとかそういうことではなく、書かないと自分でも自分がわからなくなるというか、自分の言語というフィルターを通さないと、自己についての認識があやふやになってしまうからだと思っている。

「言葉そのものに意味はなく、言葉の使われ方に意味がある」が心にとても響く。
ウィトゲンシュタインについてよく知らないけど言語ゲームの一部はそういうことを言っていると勝手に思っている。
「自分の気持ち、というのも言語ゲーム的なものだ」というツイッターでフォローしている人の発言も、とても自分に刺さる。
人は気持ちを表現するが、その表現は言語ゲーム的なもので、表現が気持ちの本質なのではない。感情の表現が乏しい人がいても、感情がないわけではない。社会的な文脈においてその感情があるとみなされるかの違いでしかない。
例えば、美味しいものを食べてグルメリポーターみたく、たくさんの形容詞を使い、身振り手振りで美味しさを表現する人と、「おいしい。」と一言だけ言う人、両者の感じている美味しさに本質的な違いはないはず。
ある社会的な文脈に沿えない人は、自分で自分の気持ちがわからないという事態になり得る。自分だけの、または自分と近しい人の言葉で、言葉と感情の対応関係を作り上げることで僕らは自分の感情がわかるようになってくるのだと思う。

1026/17

ごはんを食べながら日記を書いている。

気分が憂鬱の領域にいるからか、あんまり乗り気ではない。気分は気分にしか過ぎない。気分は家の外に出るだけで変わる。

過去が記憶でしないなら、リアルなVR体験もその人の過去になってしまいそうだなと思った。過去とは記憶なのか、起こった事実なのか。VRはやりたくない。

未来の自分は他人だと思う。だからといって、明日に目が覚めたら全く知らない人としての生活が始まるなんてことは一応今まで起こってないようだから、明日の自分が少しでも快適に過ごせるように布石を置き続けることしかできない。そういえば明日の自分に引き継げるのは自我同一性ではなく、部屋の綺麗さなのだった。

破滅の内訳の9割は自滅。誰からも危害を加えられたことがない僕は自滅をよくする。ツークツワンク(チェス)?

感性は水もの、直近一週間の過ごした時間の残りカスみたいなもの。感性を死なせないことは大事だけど手に覚えさせたことはなかなか消えない。楽器の練習とか。

 

決めたことをやることで決断に要する思考のスペースを空けて楽にしてあげること。

 

ペットボトルは飲むとキャップの部分と本体で物体として2個になる。

やつらを家に持ち込んで溜まると意識をすり減らしてくれる。だから紙パックの飲み物を買いましょう。

 

電気屋で安いイヤホンを買ったら謎のバッグを無料であげると言われたけど断る。

持ち物の数は単調に減少してもらいたい。

 

消極的ニヒリズムへのささやかな反抗。

言葉を使わないと何も理解できない気がする。

 

iPadのキーボードが欲しい。

1023/17

ハンドスピナーは回して遊ぶだけでなく目を高速に瞬きするとストロボ効果も見て遊ぶこともできるから楽しそう。

ストロボ効果をwikipediaで検索してみる。

 

”ストロボ効果は折り返し雑音の一種であり、連続的な動きが一連の短い/瞬間的な標本列で表されるときに発生する。動く物体を連続ではない一連の標本で表したとき、その動きが回転や何らかの周期的動きで、かつその繰り返しの周波数とサンプリング周波数が近いときに現れる”

 

折り返し雑音というページに飛ぶと、ピクセル処理するとレンガの壁の画像に縞模様ができてしまう現象について書いてある、なるほど、パソコンの画面とかを写真で取ると縞が出来てしまうのと同じ概念なのか。

 

概念がある概念の一部にしか過ぎないということがよくある、数学では顕著で、真面目に数学の言っていることを信じよう(盲目的に)とするほど、常にちゃぶだい返しをされている気分になる(らしい)。「今まで行列とか真面目に計算させてきたけど、実は線形写像を具現化する方法だったんですよね」みたいな。

 

ある概念についてよく知りたいときはそれが属する包括的な概念について知ろうとすることがよりよい理解に繋がるし、概念を自然に感じやすくなることもある気する。

 

概念と仲良くなる秘訣は、その親概念とも仲良くなること。

 

イプシロンデルタ論法をドヤ顔で高校生に教える数学教師がいたという話を聞いた。他人の作った絵や曲をドヤ顔で見せているのと一緒のように感じてしまい意味不明だなと思ってしまう。イプシロンデルタ論法は中学生でもわかると聞いた、ただ日常生活で述語論理や形式に慣れてないので難しく感じる。

述語論理や形式は人が発明した道具で人間の認知パターンに依存していると思うし、数学というより論理学的な側面が強い。

三段論法というのはとても優れた形式だ。三段論法を使って推論を行うとちゃんと真実を得ることができる。(数学序説:吉田洋一・赤囁也を読んでいて分かった)

よい形式から推論をすると真実を得ることができる、学校教育の数学の影響からか、人の数学的営みとは推論の方のイメージが強いけれど、よい形式を発明することも数学者または論理学者たちによって行われてきたのだなあと。

バートランド・ラッセルの高階述語論理に関する仕事がどんなものだったのか知りたいなと思っているけど何にも知らないので面白そうな本を探してる。

 

明日は意識の消耗について書きたい。ペットボトルが部屋に溜まって意識を消耗させてくれる話がしたい。

1020/17

人と会話をしたりした。普段、僕と会話をする人は自分自身と性格や考え方がとても似ているので、どんな考えを披露しても合意または意見の追加、議論と話が進んでいくけれど、そうでない人とも時々会話をすることがある。少し喋るだけで生きてる上での考え方が全く違うということがすぐわかってしまうけど、そういう時に自分の語彙をフルに使って喋るのをやめて、いい感じの定型文で返した方がいいのかなと思ってしまう。たしか、どんな仕事がしたいかという文脈の会話だった。「本当に人の役に立つ仕事がいいな」という発言に「僕は悪人ではない気がするので何かしら興味のあることをやっていれば社会や他人にポジティブな方向で還元されると思う」と返してしまうと、場がしらける。これもコミュニケーションの様式の違いかもしれない。性格の違いだとすると、MBTI性格分類で言うところのSFとNTの違いな気がする。自分の周りにはNTっぽい人がとても多い。

喋っているとやりたいことが整理されてきた。「ゆっくり落ち着いてやれば大丈夫」いい言葉だなあ。必要なものは精神の安定、自分自身を救うという意思。やるだけの力は神様から与えられている気がする。あとはそういう無根拠な自信。

日記を書く動機

文章を書くということをしないと生活をやっていけない人々がいて、おそらく自分はそれです。日記という形で日常で考えたことが言語化・視覚化されると振り返ることができる。本当なら紙の形でいろいろなものを残して置きたい、祖父が死んだときに部屋から株価をメモした数字だけのメモが大量に残っていて、内容にとくに意味があるとは感じなかったけれど、人としての営みが目に見える形で残るところに意味を感じている。

死者に、非存在に、声を与えてみたら

どうなるだろうか。

この世で言葉を話す人間は全て生きている人間である。

自動車事故で多くの人が死んでいる。それでも自動車を規制しようとはならない理由は、自動車で死ぬ確率が極めて低いこと、自動車が便利なことに加え、死んで行ったものは声を持たないからである。彼らは自動車に文句が言えない。これは半分嘘である。

とにかく死者は喋ることができない、もし死者が喋れたら人間の言語空間は大きく変わる気がする、そういえば幼い頃読んだ”ハリーポッター”では、ある登場人物が死んでも肖像画となって喋ったりする、あの設定は死をあやふやにしてしまうとても特異なものだと思うし、死で物語を重くしすぎないためなのかなとも思う。

ところで生存バイアスという言葉が好きだ。生きるのに向いてないと思っている人が多くても、今生きている時点で、何らかの生存に適した行動をあなたは何かやっているということが自ずと示されてしまう。それができなかった者はもうみんな死んで行った。今生きているあなたは生存に向いている!そう考えると生存に自信が湧いてくるような気がしませんか?

基本的に我々は起こったことについて分析する。ニュースでは今日起こった事が伝えられ、雪が降ったとか、ミサイルが飛んで行ったとか...そういう自然現象を伝えるニュースはまあよいなと思う。あとは、誰かが犯罪を犯したり不倫したり失言したりだとか...基本的に人に関するニュースは最悪だ。僕は勝手に人々は犯罪をしたり不倫したり失言したりすればいいと思う。ただ知りたくはないし、聞きつけた第三者によって言語空間がそれらで埋め尽くされるのがしんどい。特定個人についての話は普遍的につまらない。とにかく、この話はもういいや。本筋に戻ると、人々は今日起こったことに対して怒ったり泣いたり楽しんだりする。こんなことをしていると知らない間に時間が過ぎて、病気になって、死人の仲間入りをしてしまうんだろう。

さて、起こらなかったことについては分析しないのが普通だ。「こんばんは。夜7時の起こらなかったことニュースです。今日は観測史上初めて誰も犯罪を犯さなかった日となりました....」めでたい。存在しないことに何か意味を見出したりすることは人間の基本的な認知パターンではないのだけど、ときに真実を語ることがあると思う。(全事象をどう捉えるか?)

今日、屋内でペンシルをポケットから落とした。落ちた音はしたのだがどこをどう見ても落ちていない。おかしい。一般的に物が消えることはあり得ないので見えないということは、必ず、”見えなくさせているもの”が、存在しているはずだ!!そう考えた僕は窓際のカーテンをにらみつけて、振り払った。ころころと、下からペンシルが転がってきた。よかった。

 今日は何が起こらなかった?

起こらなかったことに興味を持ち、何か真実を見つけたい。