ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

1027/17

憂鬱な気分の原因の9割は寝不足というの正しい気がする。睡眠障害は治しましょう。22:00くらいに寝て6:00くらいに起きるのが一番良いと思う。日中はカフェインやら他をいろいろ摂取して、覚醒度を上げ、体や頭を動かしてあげると夜に眠くなるのでとてもよい。微妙なズレを補正するための調整剤としてメラトニンを導入するともっと安定する気がする。

昔、学校の担任の教師に睡眠障害で病院に行ってこいと言われたが、行かなったことを後悔。たかが睡眠なんか適当にやってても、自分なら大丈夫という過剰な自信があった。

自分という人間の得意/不得意について何となく考えたけど、あるルールがあって、ルールを把握した後にそれらを魔解釈するような発想をするのは得意だけど、最初のルールを把握し、受け入れる段階が不得意な気がしてきた。言われたことを言われたようにやるのを本能的に嫌がってる気がする。言われてないことを言われてないやり方でやることがとても好きらしい。こういうことを書く理由は、誰かに僕の特性をわかってもらいたいとかそういうことではなく、書かないと自分でも自分がわからなくなるというか、自分の言語というフィルターを通さないと、自己についての認識があやふやになってしまうからだと思っている。

「言葉そのものに意味はなく、言葉の使われ方に意味がある」が心にとても響く。
ウィトゲンシュタインについてよく知らないけど言語ゲームの一部はそういうことを言っていると勝手に思っている。
「自分の気持ち、というのも言語ゲーム的なものだ」というツイッターでフォローしている人の発言も、とても自分に刺さる。
人は気持ちを表現するが、その表現は言語ゲーム的なもので、表現が気持ちの本質なのではない。感情の表現が乏しい人がいても、感情がないわけではない。社会的な文脈においてその感情があるとみなされるかの違いでしかない。
例えば、美味しいものを食べてグルメリポーターみたく、たくさんの形容詞を使い、身振り手振りで美味しさを表現する人と、「おいしい。」と一言だけ言う人、両者の感じている美味しさに本質的な違いはないはず。
ある社会的な文脈に沿えない人は、自分で自分の気持ちがわからないという事態になり得る。自分だけの、または自分と近しい人の言葉で、言葉と感情の対応関係を作り上げることで僕らは自分の感情がわかるようになってくるのだと思う。