ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

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大学生や院生のブログやつぶやきを見ているとよく研究の話をしている、僕も大学生(数学科)なのだが、生まれてこの方、研究をしたいと思ったことがない。ただ、この世界について先人が考えたことに感心したり、モノや概念の仕組みの根本やアイディアの本質を知りたいという欲望はあった。 小さい頃は理科が好きで、中学では哲学と宇宙と英語の本が好きで、その後は医学部を目指してる間に数学が好きになり、大学生では数学と音楽理論をやったりしている、とにかく本質に迫ることが好きな性格で、また、作曲やプログラミングなど作ることも大好きなのけど、研究をしたいと思ったことはない。何故だろう。

 

昔、企業で化学の研究者をしていたことがある先生に化学を教わっていたが、あなたは発想力があるから医者じゃなく研究者になって社会に還元して欲しいみたいなことを言われたことがあるが、僕が発想力があるように感じるのはフェイクである。ただ、その場の瞬間的な思いつきの力が強く、独創的に見えるだけで、計画を立てコツコツ試行錯誤し新しいものに到達するような発想力と無縁である。

 

 

そもそも研究って何なのだろう。ある1つの疑問や説に対する何らかの解答を論文という形で証明すること?
僕の場合、やはり興味が散漫としすぎているせいだろうか。これがやりたい、みたいな明確な芯が全くない。ちょっとおもしそうだと思えば何でも面白く感じるので、いつも脱線して何かを漁っている感じになっている。とくに、脳の仕組みや、哲学についてはよく調べたり本で読んでいる。しかし研究などできるわけがないと思ってしまう。憧れたこともない。自分がこの世に誰も発見していない真実を見つけ出すなど不可能に感じる。諦めがよくないのか?ところで、研究をする気がない者は大学に来るなという言説を目にする。つらい。本当のことを言うと、未知のことを知りたいことには知りたいが、知るためにたくさん勉強するのはめんどくさいとさえ思っている。やっぱり向いてなさそうだ。音楽愛好家と作曲家は本質的に違うのだ。

 

僕はつらくなるのはいやだ。だからゲームだと思うことにした。側から見ている限りルールはこうだ、おそらく、論文というものを書く人間が一番偉いとみなされる。論文さえ書けば、結果さえ出せば、誰も文句は言えないようだ。僕は研究をしないといけない時になったら、自分は研究ごっこをしているのだと思い込むようにしようと思った。自分の能力を全て用いてごっこ遊びをするだけ、暗黙のルールを箇条書きにし、眺め、社会的な文脈に沿いつつ、望ましい行動をするという演技が必要だ。それを無意識のオートパイロットでやると正常な人に近づける。

 

「職業としての学問」 マックスウェーバーとか読むと良いのかもしれない。

 

今日は朝起きたら久しぶりに懐かしい気持ちになった、小学生のとき風邪を引いて親に病院に連れていってもらう時の気持ちだ。病院に行ったあとの、穏やかな秋の昼下がり、みなは学校にいるが、僕は布団で寝ているのだ。起きたら夕方で、ご飯ができたよと呼ばれる。このような質の高い日々が、今や手の届かない、遥か高いところにある気がする。

何もかもが、穏やかなまま終わりますように。5000兆円なんて必要ない、穏やかな毎日の中で音楽さえあれば!