ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

0108/18

継続して何かやるということが苦手なので、web日記もやめてしまいそうになる。

何かを続けることに意味を見出すのは、エピソード記憶貧弱マンには難しいことだ。

僕は何かをやったという事実や感じた感情、景色はだいたい忘れている、言語で表現可能な意味記憶だけ覚えているタイプの人間だ。しかし、今まで続けてきたことの恩恵を認識しないといけない。

数学を学ぶということは楽譜の読み方を学ぶの似ていて、そして楽譜が音楽そのものではないように、数学を学ぶこと自体は数学そのものではない気がする。まあ、これはどうでもいいことで、今言いたいことは、読み方を学んだ人はその流儀で書かれた知識にアクセスできるからすごい、読む力すごいということだ。僕は自己評価を"自分は何もできない"に設定しがちだけれど、数学の本が読めるのも、英語の本が読めるのも、楽譜がちょっと読める(あまり得意でない)のも、音を聴いてすぐコードやスケールがわかるのも、トンデモ科学広告がすぐトンデモだとわかることも、ある種の読み方を学んでないとできない、リテラシーがないとできないことであり、それらを当たり前と評価するのは、読む力を過小評価しすぎていると思うようになった。

twitter(インターネットスラム街)でよく言われていることだが、日本語の文章ですらきちんと読むことができないで、自分の中で勝手に作り上げた文脈で理解してしまう人というのがたくさんいるのだ。

ところで日本人の多くが受けるセンター現代文の評論は記号選択問題のわりに、むしろ記号選択だからこそ、うまくできていて、正解の根拠が文章中に必ずあって、評論で扱われている分野の基礎知識なしで答えることができる、つまり純粋に読む力を測る問題になっている。おそらく平均点は5割〜6割だろうし、センター試験を受けない人や点数を重視しない理系の人もいるだろうから、センター現代文をいつも100点取れるレベルではない読解力の人が、日本人の過半数以上である。

センター現代文なんかアホらしいと今は思っているけれど、読む力があるかという点で、多くの人にとって馬鹿にできない関門なのだ。

 

読む力というのは本当に価値があるのだと思う。個々の知識はGoogleWikipediaがいくらでもポケットティッシュのように配る時代になったけれど、正しく読む力というのは特別で、集中した訓練なしに得られない財産なのだろう。