ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

死者に、非存在に、声を与えてみたら

どうなるだろうか。

この世で言葉を話す人間は全て生きている人間である。

自動車事故で多くの人が死んでいる。それでも自動車を規制しようとはならない理由は、自動車で死ぬ確率が極めて低いこと、自動車が便利なことに加え、死んで行ったものは声を持たないからである。彼らは自動車に文句が言えない。これは半分嘘である。

とにかく死者は喋ることができない、もし死者が喋れたら人間の言語空間は大きく変わる気がする、そういえば幼い頃読んだ”ハリーポッター”では、ある登場人物が死んでも肖像画となって喋ったりする、あの設定は死をあやふやにしてしまうとても特異なものだと思うし、死で物語を重くしすぎないためなのかなとも思う。

ところで生存バイアスという言葉が好きだ。生きるのに向いてないと思っている人が多くても、今生きている時点で、何らかの生存に適した行動をあなたは何かやっているということが自ずと示されてしまう。それができなかった者はもうみんな死んで行った。今生きているあなたは生存に向いている!そう考えると生存に自信が湧いてくるような気がしませんか?

基本的に我々は起こったことについて分析する。ニュースでは今日起こった事が伝えられ、雪が降ったとか、ミサイルが飛んで行ったとか...そういう自然現象を伝えるニュースはまあよいなと思う。あとは、誰かが犯罪を犯したり不倫したり失言したりだとか...基本的に人に関するニュースは最悪だ。僕は勝手に人々は犯罪をしたり不倫したり失言したりすればいいと思う。ただ知りたくはないし、聞きつけた第三者によって言語空間がそれらで埋め尽くされるのがしんどい。特定個人についての話は普遍的につまらない。とにかく、この話はもういいや。本筋に戻ると、人々は今日起こったことに対して怒ったり泣いたり楽しんだりする。こんなことをしていると知らない間に時間が過ぎて、病気になって、死人の仲間入りをしてしまうんだろう。

さて、起こらなかったことについては分析しないのが普通だ。「こんばんは。夜7時の起こらなかったことニュースです。今日は観測史上初めて誰も犯罪を犯さなかった日となりました....」めでたい。存在しないことに何か意味を見出したりすることは人間の基本的な認知パターンではないのだけど、ときに真実を語ることがあると思う。(全事象をどう捉えるか?)

今日、屋内でペンシルをポケットから落とした。落ちた音はしたのだがどこをどう見ても落ちていない。おかしい。一般的に物が消えることはあり得ないので見えないということは、必ず、”見えなくさせているもの”が、存在しているはずだ!!そう考えた僕は窓際のカーテンをにらみつけて、振り払った。ころころと、下からペンシルが転がってきた。よかった。

 今日は何が起こらなかった?

起こらなかったことに興味を持ち、何か真実を見つけたい。