ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

1031/17

元気になってきたので未来のことを考えている。

30年以内にアジアが発展してEUみたいな感じになってそう。日本の立場はEUのドイツみたいな感じだろうか。インドやベトナムの人は必死で豊かになりたいと思って日々を生きているので日本と差はどんどん縮まっていくのは自明。

自動翻訳サービスが完璧になるから語学は無駄になるみたいな言説があるが、雑だと思う。

表面的な会話をするには翻訳サービスはとても役に立つものになっているだろうけど、外国の人と心が響き合うような会話ができるというレベルには絶対ならないだろう。語学をやるといっても、新聞や論文が英語で読めるだけでなく、言いたいことをレトリックを用いて書ける、英語でジョークが言えるくらいでないとコミュニケーションとして厳しいだろうなあ。英語の勉強はあまりしてないけど、英語の夢をよく見る。ちゃんと勉強したらもっと本格的な英語の夢が見えるだろうか。

 

最近は正しく読む力が一番大事な気がしてくる。

曲も何回も聴かないと細部がわかってこないように文章は何回も読まないと真意というのはわからない。特に内容の抽象度が高くなってくればくるほど、主体的に読むということが必要になってくる。早く読むことの価値の方が一般的に取り上げられるが、そもそも早く読めるような文章は既に知ってることが書かれた文章なので読む意味があまりない。人は知ってることしか読めないとさえ言えるかもしれない。

 

RadioheadのLiftという曲、コード進行が洋楽感覚すぎてあまり聴いてなかったけど改めてよく聴いてるとkey=BでB→Aという進行をここまでエモくできるの天才な気がしてきた。エモいコードを使ってエモくなるのは当たり前だけど、B→Aみたいなコード進行で曲の温度を高められるの凄いと思う。ラストのボーカルがG♯に当てるところが本当によい、この1つの音符に魂を感じる。

1030/17

大学生や院生のブログやつぶやきを見ているとよく研究の話をしている、僕も大学生(数学科)なのだが、生まれてこの方、研究をしたいと思ったことがない。ただ、この世界について先人が考えたことに感心したり、モノや概念の仕組みの根本やアイディアの本質を知りたいという欲望はあった。 小さい頃は理科が好きで、中学では哲学と宇宙と英語の本が好きで、その後は医学部を目指してる間に数学が好きになり、大学生では数学と音楽理論をやったりしている、とにかく本質に迫ることが好きな性格で、また、作曲やプログラミングなど作ることも大好きなのけど、研究をしたいと思ったことはない。何故だろう。

 

昔、企業で化学の研究者をしていたことがある先生に化学を教わっていたが、あなたは発想力があるから医者じゃなく研究者になって社会に還元して欲しいみたいなことを言われたことがあるが、僕が発想力があるように感じるのはフェイクである。ただ、その場の瞬間的な思いつきの力が強く、独創的に見えるだけで、計画を立てコツコツ試行錯誤し新しいものに到達するような発想力と無縁である。

 

 

そもそも研究って何なのだろう。ある1つの疑問や説に対する何らかの解答を論文という形で証明すること?
僕の場合、やはり興味が散漫としすぎているせいだろうか。これがやりたい、みたいな明確な芯が全くない。ちょっとおもしそうだと思えば何でも面白く感じるので、いつも脱線して何かを漁っている感じになっている。とくに、脳の仕組みや、哲学についてはよく調べたり本で読んでいる。しかし研究などできるわけがないと思ってしまう。憧れたこともない。自分がこの世に誰も発見していない真実を見つけ出すなど不可能に感じる。諦めがよくないのか?ところで、研究をする気がない者は大学に来るなという言説を目にする。つらい。本当のことを言うと、未知のことを知りたいことには知りたいが、知るためにたくさん勉強するのはめんどくさいとさえ思っている。やっぱり向いてなさそうだ。音楽愛好家と作曲家は本質的に違うのだ。

 

僕はつらくなるのはいやだ。だからゲームだと思うことにした。側から見ている限りルールはこうだ、おそらく、論文というものを書く人間が一番偉いとみなされる。論文さえ書けば、結果さえ出せば、誰も文句は言えないようだ。僕は研究をしないといけない時になったら、自分は研究ごっこをしているのだと思い込むようにしようと思った。自分の能力を全て用いてごっこ遊びをするだけ、暗黙のルールを箇条書きにし、眺め、社会的な文脈に沿いつつ、望ましい行動をするという演技が必要だ。それを無意識のオートパイロットでやると正常な人に近づける。

 

「職業としての学問」 マックスウェーバーとか読むと良いのかもしれない。

 

今日は朝起きたら久しぶりに懐かしい気持ちになった、小学生のとき風邪を引いて親に病院に連れていってもらう時の気持ちだ。病院に行ったあとの、穏やかな秋の昼下がり、みなは学校にいるが、僕は布団で寝ているのだ。起きたら夕方で、ご飯ができたよと呼ばれる。このような質の高い日々が、今や手の届かない、遥か高いところにある気がする。

何もかもが、穏やかなまま終わりますように。5000兆円なんて必要ない、穏やかな毎日の中で音楽さえあれば!

1029/17

今日は、音楽について。

吉松隆さんが毎日作曲しないひとが作曲家を目指す意味がわからないと言っていたのを思い出した。作ることこそが日常で、作らないことが非日常なのだろうということを感じさせる。音楽が超越的な信仰の対象として十分機能していればそういう日々を送ることができる。もし作曲でご飯が食べていけるという前提があるなら、そういう信仰の中で生きられるのは最高だと思う。

信仰対象を入れるポケットには1つしか入れることができない。どうにかして2つ...3つ...と入れれるようにならないものか。 

興味があるので、モーダルハーモニーについて調べている。

 

今、ふいに謎の確信を得たけど、僕は普通の組織的な会社で働くのはやめたほうがよいでしょう。それは僕のためでもあるし、会社のためでもある。

父が労働して(仕事場に存在し、知識や労力や時間を対価にして)お金を得ている人なので僕は不労所得という言葉にあまり馴染みがないけど、良い言葉だなと最近思った。

 

1027/17

憂鬱な気分の原因の9割は寝不足というの正しい気がする。睡眠障害は治しましょう。22:00くらいに寝て6:00くらいに起きるのが一番良いと思う。日中はカフェインやら他をいろいろ摂取して、覚醒度を上げ、体や頭を動かしてあげると夜に眠くなるのでとてもよい。微妙なズレを補正するための調整剤としてメラトニンを導入するともっと安定する気がする。

昔、学校の担任の教師に睡眠障害で病院に行ってこいと言われたが、行かなったことを後悔。たかが睡眠なんか適当にやってても、自分なら大丈夫という過剰な自信があった。

自分という人間の得意/不得意について何となく考えたけど、あるルールがあって、ルールを把握した後にそれらを魔解釈するような発想をするのは得意だけど、最初のルールを把握し、受け入れる段階が不得意な気がしてきた。言われたことを言われたようにやるのを本能的に嫌がってる気がする。言われてないことを言われてないやり方でやることがとても好きらしい。こういうことを書く理由は、誰かに僕の特性をわかってもらいたいとかそういうことではなく、書かないと自分でも自分がわからなくなるというか、自分の言語というフィルターを通さないと、自己についての認識があやふやになってしまうからだと思っている。

「言葉そのものに意味はなく、言葉の使われ方に意味がある」が心にとても響く。
ウィトゲンシュタインについてよく知らないけど言語ゲームの一部はそういうことを言っていると勝手に思っている。
「自分の気持ち、というのも言語ゲーム的なものだ」というツイッターでフォローしている人の発言も、とても自分に刺さる。
人は気持ちを表現するが、その表現は言語ゲーム的なもので、表現が気持ちの本質なのではない。感情の表現が乏しい人がいても、感情がないわけではない。社会的な文脈においてその感情があるとみなされるかの違いでしかない。
例えば、美味しいものを食べてグルメリポーターみたく、たくさんの形容詞を使い、身振り手振りで美味しさを表現する人と、「おいしい。」と一言だけ言う人、両者の感じている美味しさに本質的な違いはないはず。
ある社会的な文脈に沿えない人は、自分で自分の気持ちがわからないという事態になり得る。自分だけの、または自分と近しい人の言葉で、言葉と感情の対応関係を作り上げることで僕らは自分の感情がわかるようになってくるのだと思う。

1026/17

ごはんを食べながら日記を書いている。

気分が憂鬱の領域にいるからか、あんまり乗り気ではない。気分は気分にしか過ぎない。気分は家の外に出るだけで変わる。

過去が記憶でしないなら、リアルなVR体験もその人の過去になってしまいそうだなと思った。過去とは記憶なのか、起こった事実なのか。VRはやりたくない。

未来の自分は他人だと思う。だからといって、明日に目が覚めたら全く知らない人としての生活が始まるなんてことは一応今まで起こってないようだから、明日の自分が少しでも快適に過ごせるように布石を置き続けることしかできない。そういえば明日の自分に引き継げるのは自我同一性ではなく、部屋の綺麗さなのだった。

破滅の内訳の9割は自滅。誰からも危害を加えられたことがない僕は自滅をよくする。ツークツワンク(チェス)?

感性は水もの、直近一週間の過ごした時間の残りカスみたいなもの。感性を死なせないことは大事だけど手に覚えさせたことはなかなか消えない。楽器の練習とか。

 

決めたことをやることで決断に要する思考のスペースを空けて楽にしてあげること。

 

ペットボトルは飲むとキャップの部分と本体で物体として2個になる。

やつらを家に持ち込んで溜まると意識をすり減らしてくれる。だから紙パックの飲み物を買いましょう。

 

電気屋で安いイヤホンを買ったら謎のバッグを無料であげると言われたけど断る。

持ち物の数は単調に減少してもらいたい。

 

消極的ニヒリズムへのささやかな反抗。

言葉を使わないと何も理解できない気がする。

 

iPadのキーボードが欲しい。

1023/17

ハンドスピナーは回して遊ぶだけでなく目を高速に瞬きするとストロボ効果も見て遊ぶこともできるから楽しそう。

ストロボ効果をwikipediaで検索してみる。

 

”ストロボ効果は折り返し雑音の一種であり、連続的な動きが一連の短い/瞬間的な標本列で表されるときに発生する。動く物体を連続ではない一連の標本で表したとき、その動きが回転や何らかの周期的動きで、かつその繰り返しの周波数とサンプリング周波数が近いときに現れる”

 

折り返し雑音というページに飛ぶと、ピクセル処理するとレンガの壁の画像に縞模様ができてしまう現象について書いてある、なるほど、パソコンの画面とかを写真で取ると縞が出来てしまうのと同じ概念なのか。

 

概念がある概念の一部にしか過ぎないということがよくある、数学では顕著で、真面目に数学の言っていることを信じよう(盲目的に)とするほど、常にちゃぶだい返しをされている気分になる(らしい)。「今まで行列とか真面目に計算させてきたけど、実は線形写像を具現化する方法だったんですよね」みたいな。

 

ある概念についてよく知りたいときはそれが属する包括的な概念について知ろうとすることがよりよい理解に繋がるし、概念を自然に感じやすくなることもある気する。

 

概念と仲良くなる秘訣は、その親概念とも仲良くなること。

 

イプシロンデルタ論法をドヤ顔で高校生に教える数学教師がいたという話を聞いた。他人の作った絵や曲をドヤ顔で見せているのと一緒のように感じてしまい意味不明だなと思ってしまう。イプシロンデルタ論法は中学生でもわかると聞いた、ただ日常生活で述語論理や形式に慣れてないので難しく感じる。

述語論理や形式は人が発明した道具で人間の認知パターンに依存していると思うし、数学というより論理学的な側面が強い。

三段論法というのはとても優れた形式だ。三段論法を使って推論を行うとちゃんと真実を得ることができる。(数学序説:吉田洋一・赤囁也を読んでいて分かった)

よい形式から推論をすると真実を得ることができる、学校教育の数学の影響からか、人の数学的営みとは推論の方のイメージが強いけれど、よい形式を発明することも数学者または論理学者たちによって行われてきたのだなあと。

バートランド・ラッセルの高階述語論理に関する仕事がどんなものだったのか知りたいなと思っているけど何にも知らないので面白そうな本を探してる。

 

明日は意識の消耗について書きたい。ペットボトルが部屋に溜まって意識を消耗させてくれる話がしたい。

1020/17

人と会話をしたりした。普段、僕と会話をする人は自分自身と性格や考え方がとても似ているので、どんな考えを披露しても合意または意見の追加、議論と話が進んでいくけれど、そうでない人とも時々会話をすることがある。少し喋るだけで生きてる上での考え方が全く違うということがすぐわかってしまうけど、そういう時に自分の語彙をフルに使って喋るのをやめて、いい感じの定型文で返した方がいいのかなと思ってしまう。たしか、どんな仕事がしたいかという文脈の会話だった。「本当に人の役に立つ仕事がいいな」という発言に「僕は悪人ではない気がするので何かしら興味のあることをやっていれば社会や他人にポジティブな方向で還元されると思う」と返してしまうと、場がしらける。これもコミュニケーションの様式の違いかもしれない。性格の違いだとすると、MBTI性格分類で言うところのSFとNTの違いな気がする。自分の周りにはNTっぽい人がとても多い。

喋っているとやりたいことが整理されてきた。「ゆっくり落ち着いてやれば大丈夫」いい言葉だなあ。必要なものは精神の安定、自分自身を救うという意思。やるだけの力は神様から与えられている気がする。あとはそういう無根拠な自信。