ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

1113/17

考えても答えが出ないようなことを考えて理性の無駄使いをするよりは、定式化された問いを探す、または自ら立てて定式化し考えることが、よい理性の使い方だと思った。

 

人は忘れる生き物だけど、最近忘れることが本当につらいので紙などに書いたり読んだり、一つの到達点として形にして残したりすることに尊くさ感じる。頭の中に何もかも置いておけるわけじゃない

1111/17

冷蔵庫に押し込んでいた料理が腐り始めるような感じで、人生が無意味だという事実が臭い始めたので困っている。そして、そんな困っている人の精神は理性を使っていろいろな形而上的なものに人生が無意味と感じる理由を探し始めるけれど、全くもって理性の無駄使いなのであった。インターネットをやめたり、美味しいものを食べたり、毎日9時間寝るとかの方向性で頑張ったほうがよい、人間の体や脳の構造は1万年前と大して変わってない、文明によって押し込められた僕らの本能が理性を通して訴えかけてきているだけなのだから。そういうわけで、今日は理性について何かを書き残したい気分になった。

 

理性の無駄使いという言葉が気に入っている。理性はうまく使わないと身を滅ぼす。そもそも理性がない人もいるような気もするけど確かめようがないことだ。理性のうまい使い方とは....。

 

「り、理性を使ってみては? 一瞬、苦痛をまぎらわす、頼もしいものなんですが…」 (ミッションちゃんの大冒険/模造クリスタルより)

 

有名なセリフだけれど、理性を使いすぎると何が苦痛なのかすらよく分からなくなってくるのではないですか?

もっとも、生物にとって苦痛なものであるはずの死に、自ら飛び込んでいく人間もいる、それは理性という手形を発行して借金し苦痛をやり過ごし続け、苦痛が苦痛であることを忘れ、借金が返せなくなり破産してしまったからなのかもしれない。

セネカの「生の短さについて」で、お金を他人に何の理由もなく差し出す人はいないが、何故か時間に限っては、人々は他人に簡単に差し出すのだ、のようなことが書かれていてうまいこと言うなあと思ったけれど、こんな感じで、理性も知らない間に他人に売っているのかもしれないですね。

 

1日やるべきことが終わればよいなあ。理性はそのために使うといいのでしょうね。閃きも使うべきところで使うから光るのであって、常に何か心を満たしてくれるような面白い閃きを求めていても仕方がない。

考えるべきことを考える時に考える能力が大事だと、ラッセルも言っていたし....

 

P.S.

脳の中で神経伝達物質が足りてない気がする、コンサータ欲しいんなぁ...

1107/17

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休憩時間にiPadのswift playgroundで小学生になったつもりで遊んでみた。

今の小学生はこういう形でプログラムに触れ始めるということがわかった。

 

"Making mistakes is actually one of the best ways to learn something new and remember it for a long time!"

 

刺さる言葉だ...

自身の成功体験ばかり思い出すのは人間の本能だけど、そこに至る試行錯誤や失敗を忘れがちなのだよなあ。

 

暇つぶしに日本の厚生労働省のwebページで人口統計を見る。

政治家は少子化対策を掲げるが、そんな対策は焼け石に水で無意味であり、もう人口が減るのは決定事項だと仮定して、急激な人口減少にいかに社会が対応するのかを考えた方がいいのではという気がする。

社会の過半数がヤバいと言い始めないとヤバいと思えないのが1番集団の中でまともな人間であると思う。

崖下に落ちていく羊の群れ、または、はぐれた子羊、または、羊の群れを狙う1匹の狼の、どれに属したいか?

羊はかわいい。

疑問: 対象をかわいいと思うことと、嗜虐欲を感じることの関係。

 

最近はマーフィーの法則というジョークが好き。起こってほしくないことはいつも起こる。

似たようなことを言うならば、落ちてほしくないものはそもそも高い所に置かない方がよい。つまり高層ビルは途中の階からはコンクリートではなく真綿で作るのがよい。

1101/17

IPad用のキーボードを買った。

今そのキーボードで書いてみている、折りたたみ式でBluetooth接続という仕様。

IPadでプログラムのコードを書く練習をしようと思って購入した。iPadをいかにノートパソコンみたいに使えるかという試み。

最近思ったけれど、プログラムも数学も自分で1から考えようとするより、本やネットにある情報を参考にしてる方がどんどん新しいことが身につくし明らかに効率が良い、鵜呑みにするのはよくないが...。

昔の自分は自分のやり方でやることにとてもこだわりがあったけど、そういう妥協的なほうが今はうまくいく気がする。

プログラムはコピーペーストが基本で、どう書くかより何を書くかという方が大事っぽいし、いろいろな言語も何がしたいかで使い分けるだけなので、どういう書き方が好きとか、どの言語が好きとかいう感性の話はプログラムではナンセンスなのかなあと側から見ていて思う。本に書いてある関数を全部覚えようとするみたいな学び方はよくないらしい、何がしたいかという目標に対して必要なものを調べればよいみたいな感じだろうか。わかる気がする。数学もやはり目標を意識することが大事だなあ。何が示したくていろいろな記号や定義や定理の準備をしているのか考えながら読む方がよいなあ。前から後ろに読むのではなく、あっちこっちに飛びながら、何が目標なのかを確認する。 今、自分が本の中のどこにいてどこに向かっているのかを俯瞰しながら進んでいく感じ。

1031/17

元気になってきたので未来のことを考えている。

30年以内にアジアが発展してEUみたいな感じになってそう。日本の立場はEUのドイツみたいな感じだろうか。インドやベトナムの人は必死で豊かになりたいと思って日々を生きているので日本と差はどんどん縮まっていくのは自明。

自動翻訳サービスが完璧になるから語学は無駄になるみたいな言説があるが、雑だと思う。

表面的な会話をするには翻訳サービスはとても役に立つものになっているだろうけど、外国の人と心が響き合うような会話ができるというレベルには絶対ならないだろう。語学をやるといっても、新聞や論文が英語で読めるだけでなく、言いたいことをレトリックを用いて書ける、英語でジョークが言えるくらいでないとコミュニケーションとして厳しいだろうなあ。英語の勉強はあまりしてないけど、英語の夢をよく見る。ちゃんと勉強したらもっと本格的な英語の夢が見えるだろうか。

 

最近は正しく読む力が一番大事な気がしてくる。

曲も何回も聴かないと細部がわかってこないように文章は何回も読まないと真意というのはわからない。特に内容の抽象度が高くなってくればくるほど、主体的に読むということが必要になってくる。早く読むことの価値の方が一般的に取り上げられるが、そもそも早く読めるような文章は既に知ってることが書かれた文章なので読む意味があまりない。人は知ってることしか読めないとさえ言えるかもしれない。

 

RadioheadのLiftという曲、コード進行が洋楽感覚すぎてあまり聴いてなかったけど改めてよく聴いてるとkey=BでB→Aという進行をここまでエモくできるの天才な気がしてきた。エモいコードを使ってエモくなるのは当たり前だけど、B→Aみたいなコード進行で曲の温度を高められるの凄いと思う。ラストのボーカルがG♯に当てるところが本当によい、この1つの音符に魂を感じる。

1030/17

大学生や院生のブログやつぶやきを見ているとよく研究の話をしている、僕も大学生(数学科)なのだが、生まれてこの方、研究をしたいと思ったことがない。ただ、この世界について先人が考えたことに感心したり、モノや概念の仕組みの根本やアイディアの本質を知りたいという欲望はあった。 小さい頃は理科が好きで、中学では哲学と宇宙と英語の本が好きで、その後は医学部を目指してる間に数学が好きになり、大学生では数学と音楽理論をやったりしている、とにかく本質に迫ることが好きな性格で、また、作曲やプログラミングなど作ることも大好きなのけど、研究をしたいと思ったことはない。何故だろう。

 

昔、企業で化学の研究者をしていたことがある先生に化学を教わっていたが、あなたは発想力があるから医者じゃなく研究者になって社会に還元して欲しいみたいなことを言われたことがあるが、僕が発想力があるように感じるのはフェイクである。ただ、その場の瞬間的な思いつきの力が強く、独創的に見えるだけで、計画を立てコツコツ試行錯誤し新しいものに到達するような発想力と無縁である。

 

 

そもそも研究って何なのだろう。ある1つの疑問や説に対する何らかの解答を論文という形で証明すること?
僕の場合、やはり興味が散漫としすぎているせいだろうか。これがやりたい、みたいな明確な芯が全くない。ちょっとおもしそうだと思えば何でも面白く感じるので、いつも脱線して何かを漁っている感じになっている。とくに、脳の仕組みや、哲学についてはよく調べたり本で読んでいる。しかし研究などできるわけがないと思ってしまう。憧れたこともない。自分がこの世に誰も発見していない真実を見つけ出すなど不可能に感じる。諦めがよくないのか?ところで、研究をする気がない者は大学に来るなという言説を目にする。つらい。本当のことを言うと、未知のことを知りたいことには知りたいが、知るためにたくさん勉強するのはめんどくさいとさえ思っている。やっぱり向いてなさそうだ。音楽愛好家と作曲家は本質的に違うのだ。

 

僕はつらくなるのはいやだ。だからゲームだと思うことにした。側から見ている限りルールはこうだ、おそらく、論文というものを書く人間が一番偉いとみなされる。論文さえ書けば、結果さえ出せば、誰も文句は言えないようだ。僕は研究をしないといけない時になったら、自分は研究ごっこをしているのだと思い込むようにしようと思った。自分の能力を全て用いてごっこ遊びをするだけ、暗黙のルールを箇条書きにし、眺め、社会的な文脈に沿いつつ、望ましい行動をするという演技が必要だ。それを無意識のオートパイロットでやると正常な人に近づける。

 

「職業としての学問」 マックスウェーバーとか読むと良いのかもしれない。

 

今日は朝起きたら久しぶりに懐かしい気持ちになった、小学生のとき風邪を引いて親に病院に連れていってもらう時の気持ちだ。病院に行ったあとの、穏やかな秋の昼下がり、みなは学校にいるが、僕は布団で寝ているのだ。起きたら夕方で、ご飯ができたよと呼ばれる。このような質の高い日々が、今や手の届かない、遥か高いところにある気がする。

何もかもが、穏やかなまま終わりますように。5000兆円なんて必要ない、穏やかな毎日の中で音楽さえあれば!

1029/17

今日は、音楽について。

吉松隆さんが毎日作曲しないひとが作曲家を目指す意味がわからないと言っていたのを思い出した。作ることこそが日常で、作らないことが非日常なのだろうということを感じさせる。音楽が超越的な信仰の対象として十分機能していればそういう日々を送ることができる。もし作曲でご飯が食べていけるという前提があるなら、そういう信仰の中で生きられるのは最高だと思う。

信仰対象を入れるポケットには1つしか入れることができない。どうにかして2つ...3つ...と入れれるようにならないものか。 

興味があるので、モーダルハーモニーについて調べている。

 

今、ふいに謎の確信を得たけど、僕は普通の組織的な会社で働くのはやめたほうがよいでしょう。それは僕のためでもあるし、会社のためでもある。

父が労働して(仕事場に存在し、知識や労力や時間を対価にして)お金を得ている人なので僕は不労所得という言葉にあまり馴染みがないけど、良い言葉だなと最近思った。