ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

0125/18

コンサータを朝に飲むと朝方人間の一日を疑似体験することができる気がする。

代わりに夜が眠い。そういえば未だに昔の大学受験のことを思い出して鬱な気分になる。音楽も数学もいろいろやっていくしかないが.... たぶん次に何か成功体験があれば、思い出しポイントが移動するような気がする。

思い出しポイントと言えば、出身県外の私立高校を受験しに行った日のこともよく思い出す。些細なことまで何故か記憶に残っている。 

最近雪がよく降っている。オタク脳なので連想して、涼宮ハルヒの消失のことを考えるようになる。

小説を読んだのは中学生のときに読んだ、面白すぎて授業中ページをめくる手が止まらなかった。

映画はひきこもってたときに見たなあ、あの冬のグレーな色彩感が良いんだよな。

去年の夏くらいに涼宮ハルヒ聖地巡礼しようと甲陽園に行ったけど綺麗なところだった。甲陽園を思い出しながらもう一度涼宮ハルヒの憂鬱が見たくなって来た。

 

ところで最近行った精神科の医者はとてもいい人だった、50歳くらいだろうか? いろいろ話がわかる人で、僕が数学科の留年生だというと相対性理論の本を持ち出してきたり、音楽やってると言うとギターを持ってくるし面白すぎる。

僕もあんな感じの精神科医とかに割となりたかったなあ。あんな感じにギター上手くなりたいな、僕の今のセンスなら真剣に取り組めば到達できそう。

相対性理論のことをよく知らないが、アインシュタインが物理にリーマン幾何とか多様体などの当時の新しい数学を導入して理論を作ったみたいな印象がある。古典力学+微分とか多様体がわかってたら、相対性理論読んで理解できるのかな? まあ物理は物理で独特の概念があるのでそこを理解していかないといけない気がする。

0123/18

数学や哲学はラップのディスり合いと一緒

相手の論理の不備を突き、「俺の方がいかに世界をわかってるか」を見せつけ合う。

ディスり合った後、最後にお互い固い握手を交わすみたいな感じで行きたいですね。

 

「難しいことを言う人は本当は簡単なのにわざと難しい表現を用いている」「難しいことを噛み砕いてわかりやすく100パーセント説明することができる」などという幻想に人間は陥りがち。テレビ等では、わかりやすく説明する番組が人気だ。とにかく難しいことは好まれない。なぜなら難しいことと長時間向き合うことに人間は耐えられないからだ。5秒くらい考えて納得できることに感動して終わってしまうのが人間だ。知識がコモディティ化した現代において、簡単に説明できて5秒でわかることを知っていることに価値はないのだろうなと思う。

 

ジェダイマスターのヨーダは忍耐が大事だと言っていたなあ。正しい忍耐...理不尽にひたすら耐えるのとは違う、正しい忍耐がいる。

 

0110/18

知は自由で、知識の使い方も自由。アルキメデスの私に支点さえ与えてくれれば地球さえ動かせるという発言はとても自由があっていいなと思う。知は世界にインパクトを与えるためのテコみたいなものだったらよいなあと思う。

音楽理論オタクだけど曲を作らないみたいな、知識をため続けるだけのオタクになりたくないのだよな、純粋数学とかやってる人は純粋数学の世界にインパクトを与えたいのだろうか?それとも現実に与えたいのか。人によって動機は違うかもしれない。

 

みんな理系とか文系とか学歴の話が好きだ。実際それは文部科学賞によってどれだけ洗脳されたかという自慢、奴隷の鎖自慢なのかもしれない。自分も洗脳されていた側だった。知は自由なので教育は害悪。

 

現実世界に変なことが起こってほしい。合理性を突き詰めると人間の先入観が破壊されて世界に変なことが起こる可能性が往々にしてある。

例えば仮想通貨とか変なことが起こっていると思う。どうでもいいけど涼宮ハルヒビットコインにハマりそう。「キョンビットコインを買うわよ!」

支離滅裂な日記を書いた。

0108/18

継続して何かやるということが苦手なので、web日記もやめてしまいそうになる。

何かを続けることに意味を見出すのは、エピソード記憶貧弱マンには難しいことだ。

僕は何かをやったという事実や感じた感情、景色はだいたい忘れている、言語で表現可能な意味記憶だけ覚えているタイプの人間だ。しかし、今まで続けてきたことの恩恵を認識しないといけない。

数学を学ぶということは楽譜の読み方を学ぶの似ていて、そして楽譜が音楽そのものではないように、数学を学ぶこと自体は数学そのものではない気がする。まあ、これはどうでもいいことで、今言いたいことは、読み方を学んだ人はその流儀で書かれた知識にアクセスできるからすごい、読む力すごいということだ。僕は自己評価を"自分は何もできない"に設定しがちだけれど、数学の本が読めるのも、英語の本が読めるのも、楽譜がちょっと読める(あまり得意でない)のも、音を聴いてすぐコードやスケールがわかるのも、トンデモ科学広告がすぐトンデモだとわかることも、ある種の読み方を学んでないとできない、リテラシーがないとできないことであり、それらを当たり前と評価するのは、読む力を過小評価しすぎていると思うようになった。

twitter(インターネットスラム街)でよく言われていることだが、日本語の文章ですらきちんと読むことができないで、自分の中で勝手に作り上げた文脈で理解してしまう人というのがたくさんいるのだ。

ところで日本人の多くが受けるセンター現代文の評論は記号選択問題のわりに、むしろ記号選択だからこそ、うまくできていて、正解の根拠が文章中に必ずあって、評論で扱われている分野の基礎知識なしで答えることができる、つまり純粋に読む力を測る問題になっている。おそらく平均点は5割〜6割だろうし、センター試験を受けない人や点数を重視しない理系の人もいるだろうから、センター現代文をいつも100点取れるレベルではない読解力の人が、日本人の過半数以上である。

センター現代文なんかアホらしいと今は思っているけれど、読む力があるかという点で、多くの人にとって馬鹿にできない関門なのだ。

 

読む力というのは本当に価値があるのだと思う。個々の知識はGoogleWikipediaがいくらでもポケットティッシュのように配る時代になったけれど、正しく読む力というのは特別で、集中した訓練なしに得られない財産なのだろう。

1218/17

クラシックの教育は全く受けてないけど、アンリ・シャランの和声課題が美しい(?)ということをずいぶん前から知っている。いつか理解してみたいなあと思うけど、最大の障害は楽譜の議論があんまり得意ではないところにあるので、今は簡単な楽譜を早く読む練習をしています。

音楽は人の作品からは学ぶことが大いにあるけど、人から学ぶものでもないような気がしていたので、学校も専門学校にも行く気になれなかった。

和音のルールに禁則が多いのはある面、凄く良いことだと思う。やっていけないこと以外やってもいいという点で自由だ。

感性の邪魔をされたくないとも思う。この和音がおしゃれですとかこのよう和音は〜な場面で使えるでしょうみたいな、そういう感性の押し付けは感心しない。

 

僕は数学科に在籍しているけど、数学もきっと、人からは学ぶものではなさそうだと思う。人の数学的遺物から学ぶことはたくさんあるだろうけど、本当に数学を楽しんでる人、研究者の人は、数学という砂場で遊びつづけてるのだと確信している。僕は、あんまり数学での遊び方がよくわかってないのかもしれないと思った。音楽なら無限に遊ぶ自信があるけど....

遊べるかどうかが重要で、音楽も数学もそこに何も違いはない。

数学はたまたま、義務教育や高等教育の科目になっているだけだ。たまたま、科学が台頭している現代における記述ツールになっているだけだ。

 

自分の無限に遊べる分野を作って、かつ、能力を自分で伸ばして行くべきなのだと思う。

1217/17

文章を書く気力がなくなって来ている気がする。気力が欲しい。

「やる気がない時に部屋の掃除を始めたくなるのは自分の行動で周囲の環境が何らかの改善されることを確認している」そうだと思う。

学習性無気力とか脳科学とかのことが思い浮かぶが、どんな些細なことでも周囲をよくする行動をすることには意味がある。まあ、よくなったから何だと言われたらおしまいであるが...

 

よく目にする「人生は楽しまなきゃ損」こういう価値観は先進国での自殺に繋がると今日思った。(何か)を楽しむのは良いことだと思うが、そこに人生を代入するのはどうなのか。 楽しめない人の人生はひたすらマイナスの存在になってしまう。楽しんでる人もアウシュビッツのようなところにぶちこめば、とたんにその価値観は崩壊してしまう。極論、1番楽しい時に苦しまずに自殺するのが最強になってしまう。そういう自殺をした女子中学生がいた気がする。遺書に1番楽しいときに消えたい!みたいなことを書いていた。 

人生を絵を描くことに喩えることがある。「描き続ける画家はいない。手を休めて全体を見て、また描き始め完成を目指していく。」みたいな名言あった気がする(適当) そうだねえ、例え絵が完成して、蛇足だとわかっていても手が止まるまで描くことをやめられないのが人生で、その中で最良の絵にするというのが、自殺しない人にとっては基本方針になると思います。文章を丁寧に書くことがめんどくさくなってきたのでここでやめます。

1214/17

今日のポエム 

数学をメイドインアビス風に

 

人類にとって未知の領域が存在するアビス(数学)にはさまざまな遺物(公理や定義や定理)が落ちていたり、動植物(概念や問題)が自生している、大昔の人間が生み出したものもあれば、自然に生まれたようなものもある。

1度、奥に(下層)進んでしまえば、2度と上層(以前の認識)に戻ることはできない。

そんな数学という、ひとつのおおきな世界の中で今日も暮らす概念たちの姿は、時に可愛いらしい造形だったり、見るものの心を折ってしまうようなグロテスクな化け物だったり、多種多様である。(ネリタンタンとかベニクチナワとか)

しかし誰が意図したのかわからないが、その概念の構造において奇妙な共通点がある。それらの共通点についてまとめた図鑑が探掘家(数学者)によって執筆されている。 (群体環などの代数系圏論などのこと) この概念たちの図鑑読むことで、困難を極める奈落の底への旅への見通しがよくなるだろう。

 

(解析はどんな表現がふさわしいだろうか)

 

オイラーの公式とかの奈落の至宝感は異常

 

高校生〜大学生    赤笛 (見習い)

大学生 〜  院生     青笛 (一人前)

院生 〜 助教授        月笛 (師範代)

教授 〜 図鑑の著者  黒笛 

数学界に大きな影響をもたらした伝説的な数学者   白笛

 

白笛の声は数学の声←かっこいい

 

「今答えが見つかるなら 全て無くしてもいい」←なける

 

「今この目で見つめるのは 暗闇のその向こう、

    光よりも輝かしい  謎と真実が見える」       ←なける

 

「もし答えを知ったのなら何かが変わるのかな

    ふと迷う僕らの背を 憧れがまだ押してる」←なける

 

「それが呪いでも 鼓動は本物」 ←なける