ふわとろオムライスの作り方

言語のプールの外で

0210/08

脱言語していきたいなあ〜と思う 言語は本当に人を堕落させてしまう。

標語:脱言語、入世界! 感じる光や音や温かさが全てなので。

 

10代で悩んでいたこととしては、なぜ言葉では100パーセント表現仕切ることができないんだろうということだったけど、なら言葉を消せばいいやって感じに今はなっています(恋愛サーキュレーション)

0208/18

いろいろ頭の中に巡らせすぎて神経が衰弱してきた。

巡らせないように目の前にあるタスクをこなした方がいいのに...

 

言葉には意味がない。

意味があるのは、世界の現象と、言葉の裏側にある世界の部分的な像のみ。

言葉によって構成されているインターネットは見る価値がない。

スーパーコンピュータでWeb全体をシュミレーションできるかもしれない。書き込みはあるが、それを書いた人間や実態というものが存在しない...ということもありえる。これSF小説になりそう。(誰か書いてるかもしれないけど)

ニュース記事にはなぜコメント欄があるのか?世の中ではこう思う人が多いですよ、ということを認識する場所である。

もし支配者が哲学者と心理学者などを雇いまくって"普通の人"の語彙や認知を徹底研究し、実際に起こったニュースのコメント欄に普通の人がしそうなコメントを大量にプログラムを使って書き込めば、架空の世論の構築すら可能だ。

言葉には、対応する世界の実態がない、という可能性が常にある。

 

この前の電車に投身自殺する男性を救った女性の動画が世界を席巻したけれど、あれは合成によって作られたフェイクニュースであることが指摘されている。

 

言葉だけでなく動画であっても対応する世界の実態がない可能性がある。

 

バーチャルyoutuberや、mp3で音楽を聴くということもある種のフェイクなわけだけれど、さすがにそこまで良くないということはできない。虚構に価値があることもある。

 

人間をダメにしているのはソファではなく、本当はじっとしているだけなのに世界を操作した、世界に働きかけたと錯覚させてしまう言語である。

日記を書くという行為については、今まさにそれをやっているといえる。

0206/18 No.3

>10年来の鬱とADHD傾向が改善した

 

これ僕が一週間に一回は読んだ方がいいやつだ...

 

急に家族の中で僕だけ無能オブザ無能という事実が心に突き刺さってきた、

人生エンジョイ勢だから適当に楽しくやってたらいいと半分思っていたわけだけどもうどうしようもなくそういう事実がある、もっと言えば同窓生の中でも僕は無能オブザ無能である。

 自分を無能呼ばわりする人格形成が行われてしまったことがとても悲しい。

0206/18 No.2

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図書館にクラシック音楽の雑誌があったのでパラパラと読んでみた。9割つまらなさすぎてびっくりした。

演奏家とか愛好家が曲のレビューしているけど、音に対して優美だとか悲壮感だの形容詞がうるさい。ここで鳥肌たちましたとか、ここ踊れるとか頭振りながら聴いてますとかの方が読んでる方もわかると思う。やはり音楽を言葉で表現する意味がわからない。

まあまあ面白かったのは吉松隆さんと、もう1人作曲家の人のコラムだけだった。

ちょっと面白いと思ったのは曲の編曲や形式などの構造を分析しているレビューだった。

 

吉松隆さんが松村禎三さんとの会話で作風について考えてるくだりがおもしろい。

松村さんがラヴェルをいくら真似してもラヴェルにならない、強力な個性があると吉松隆さんは言う。

普通真似しようとしたら痕跡が残るのに、それが全く見当たらない これは凄い。と言う。

作曲家の才能とは音楽を自由に操れる才能とは全く違うと、断言している。おもしろい。

 

作曲家は自分の曲の意味を知ることは永久にないのでしょうねという言葉もとてもおもしろい。

作曲はある種の精神のトリップ状態からのおみやげだと思う。その場所に行けなくなったらもう手に入らない。

おみやげだけが残る。接続が切れないうちに宝をせしめに行く感じ。

逆に毎日一個ずつ音符書くような人もいるかもしれない。ー

 

松村禎三交響曲第一楽章冒頭はラヴェルのダフニスとクロエの第2組曲冒頭、

管弦楽のための前奏曲ボレロが元ネタと、書いてある。聞き比べてみようと思った。

 

才能とか別に無くてもいいからとにかく現物を作って残し続けないと人生は無になるなあと痛感。

0206/18

もしかしたらあなたしか感じてない世界への感覚があるかもしれない、毎日それと向き合って水をあげるのがよい。

 

「翔太と猫のインサイトの夏休み」について読者メーターで感想を見たところ、

子どもの頃から考えてきたことだったと言っている人や、

読んだけれど意味を全く理解できないと言っている人に二分されていた。

 

「哲学は好きだと思っていたが自分の好きなのは思想史だった」これも面白い感想だなと思った。

 

そういえば「文学部哲学科はたいてい高校倫理で面白いと思ってくる人がほとんど」みたいな書き込みも昔に見たことがある。

そのほとんど以外っていうのは頭おかしい人ってことですかね?

 

認知的脱抑制という言葉が面白いのでこれからも使っていこうと思っているけど、

平和的な、他者に危害を加えない頭のおかしさとは、認知的脱抑制する頻度やレベルで定義できる気がする。

認知的脱抑制は遺伝子レベルで決まっていて、組み合わせが悪いか程度が重いと精神疾患になるらしい。

認知的脱抑制は、人類の認知的革命の原動力だろうと思われる。あなたが古代の羊飼いだったとしよう、黒い模様がある羊と真っ白の羊を飼っている。この羊たちは本質的に、この世界で異なるものだ。ここから羊という要素を抽出して同じものとして束ね、羊が2匹というレベルの認知を行うことはできたんだろうか、さらにそれを引っ掻き傷で表現することを考え、2という文字が生みだすことはできたのか。この一連の流れを終えるまでに人類は何十万年を費やしたんだろうか?

動物の足跡から漢字を生み出したという伝説がある中国の蒼頡もそうだ。

誰もやったことがない全く違う認知をし、かつ世界にとって有益なものであったとき、認知的な革命となる。

新しい見方ができる人というのは、他者と同じ見方ができない社会的な疾患とも言える。

 

代数学で出てくる同値関係 〜 は 同じとみなす感覚に根ざした数学表現だと思う

同値関係の公理を明文化した人はすごい。とくに反射律とか絶対に思いつかない。

 

翔太の猫のインサイトの夏休みという本と僕が中学生のときに出会えたのは奇跡かもしれない。

全ての意味を説明できるレベルで読破しようかなと思いました。